平岩米吉 ひらいわ よねきち
※調査の結果を随時反映させていきます。
1897(明治30)年 12月4日*1、東京府南葛飾郡亀戸村で江戸から続く竹問屋・上総屋の6代目平岩甚助*2の6男として生まれる。母志け(しげ)は甚助の後妻だが、米吉*3出生前に異母兄たちは廃嫡されており、家督を継ぐ*4。1歳半のころ、近所に住んでいた未亡人の廣瀬みさが乳母となる。
*1 戸籍上の出生日は1898(明治31)年2月4日。 *2 上総屋では店を継ぐと甚助を名乗った。 *3 上総屋の跡継ぎの幼名。6代目甚助は将棋の棋士名を米吉と名乗った(七段)。 *4 異母兄にある程度の財産を分与し隠居させたので、米吉は8代目当主。
1904(明治37)年 川端玉章の画塾に入る。
1911(明治44)年 亀戸尋常小学校を全甲で卒業し、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高校)に入学。東京大学安田講堂の設計にも携わった建築家岸田日出刀(のち、白日荘建築時の顧問)は中学の同級生。
1912(大正元)年 9月2日、父甚助他界。勉学への意欲を失い、一高受験放棄。
1913(大正2)年 登山に熱中し、9月、同級生と「峋峯会」を結成。回覧誌『攀登』を発行。
1914(大正3)年 短歌、連珠に熱中する。
1915(大正4)年 亀戸連珠会発足。
1916(大正5)年 3月、東京府立第三中学校卒業。平岩麗山として連珠初段。犬、猫、狼の文献、古文書、浮世絵などを盛んに蒐集する。新聞各紙の短歌欄の常連入賞者となり、特選をとったこともある。選者は与謝野晶子、佐佐木信綱。
1917(大正6)年 連珠二段。
1918(大正7)年 連珠三段。荏原郡目黒村大字上目黒字駒場(農科大学前)に母、犬、猫とともに移転。8月16〜17日、変態心理学講習会第2回に参加。
1919(大正8)年 5月12〜16日、変態心理学講習会第3回に参加。
1923(大正12)年 連珠五段。築地小劇場の俳優友田恭助と親しくなり、小山内薫、土方与志、千田是也らと知り合う。この頃劇作家を志した時期があった。関東大震災のあとから犬の短歌を読み始める。
1925(大正14)年 『銀月必勝法』『松月必勝法』を出版。月一回、連珠白日会の例会を駒場の自宅でもつ。12月5日、日本橋で化粧問屋リーガル商会を営んでいた高橋林三郎とへう(ひょう)の三女貞子と結婚。貞子は佐与子と改名。
1916(大正15)年 連珠六段。『花月必勝法』『横二聯必勝法』前編、後編出版。
1927(昭和2)年 連珠七段。『連珠実戦講義(一)』を出版。以後、連珠の実戦を離れる。7月、長女由伎子誕生。育児日記からのち創刊する雑誌『母性』につながるテーマを見出したと言われている。
1928(昭和3)年 『連珠実戦講義(二)』を出版。斎藤弘、鏑木外岐雄らと日本犬保存会の設立に参加。9月、長男布士男誕生。
1929(昭和4)年 6月、実母と距離をとる関係から、妻子、犬2頭とともに荏原郡碑衾町衾(現、目黒区自由が丘)に転居。当時の碑衾はガス、水道のひかれていない農村だった。1,000坪の土地に広い庭を備えた邸宅を白日荘と命名。雑誌『連珠新報』の編集に携わる(〜1940)。
1930(昭和5)年 『連珠随筆』、幼児の自由詩集『人形の耳』を出版。犬科動物の生態研究を始める。すなわち、犬科動物である犬、狼、ジャッカル、狸、狐と、比較のため猫科の朝鮮山猫やその他、ハイエナ、麝香猫、熊、栗鼠などを、広い庭にほとんど放し飼いにし、自然な姿での行動や生態を観察する。集団生活するものは集団で、世代を通じて見る必要があると考えていた。日本における狼の実証研究の嚆矢となる。シェパードのチムを飼い始める。
1931(昭和6)年 4月、雑誌『変態随筆』第一輯発行。6月、『変態随筆』第二輯発行。10月、『変態随筆』第三輯発行、雑誌『母性』創刊。12月、『変態随筆』第四輯発行。いずれも大崎善司の装幀。以後発行される雑誌のカット、装幀は大部分が大崎の手による。
1932(昭和7)年 父甚助の実戦譜をあつめ、『近世将棋巨匠の手合』を出版。5月、『変態随筆』第五輯発行。
1933(昭和8)年 8月、『変態随筆』第六輯発行。9月、『変態随筆』第四輯が発禁となる(風俗壊乱)。11月、『母性』を『子供の詩・研究』に改題。同時に『科学と芸術』を創刊。『母性』のテーマ(住宅・庭園・衛生・育児・思想・趣味・美術・文学)を2誌にわけた。
1934(昭和9)年 3月、次男阿佐夫誕生。6月、『科学と芸術』を改題、『動物文学』創刊。装幀は恩地孝四郎。7月、チムが犬フィラリアのため死亡。フィラリア研究会を設立、資金を募り東大教授板垣四郎博士に研究を委嘱し、フィラリア治療の道をひらく。日本犬標準の制定に関わる。
1935(昭和10)年 5月、『子供の詩・研究』を『動物文学』に合併。
1936(昭和11)年 9月、「動物文学会」設立。月一回著名な作家、博物学者、動物学者を招き自由ヶ丘の自宅、渋谷東京パンなどで例会をひらく。
1937(昭和12)年 犬科生態研究所を正式に設置。5月、フィラリア研究支援活動が日本人道会による動物愛護週間において動物愛護章を受章。ほか13名。
1938(昭和13)年 連珠八段に推戴される。
1939(昭和14)年 次女登和子誕生。
1940(昭和15)年 飼育していた狼の最後の一頭が死亡。
1941(昭和16)年 太平洋戦争が始まり、多くの動物文学会員が亡くなる。軍用犬種であるシェパードを自家繁殖させていたことから、犬の食糧配給を受けていた。
1942(昭和17)年 7月、教材社より『私の犬』(1934〜41年に書いた初期随筆集)、日新書院より『犬と狼』(1932〜41年に書いた飼育動物の観察に基づく文章のうち、科学的色彩のあるものの著作集/自然観察叢書)出版。11月、フリードリヒ・シュナック・植村敏夫訳・平岩米吉監修『世界動物文学選集 蝶の生活』(『動物文学』に連載されていた外国作品を単行本にまとめ、シリーズ出版)出版。
1943(昭和18)年 1月、教材社よりヘンリ・ウイリアムスン・八波直則訳・平岩米吉監修『世界動物文学選集 鮭』出版。時局のためか、シリーズは前年刊行の『蝶の生活』とこの『鮭』で頓挫している。
1944(昭和19)年 戦時下の物資の窮乏のため動物の飼料確保に苦労するようになる。紙不足により『動物文学』は12月発行の96輯以後休刊となる。
1945(昭和20)年 3月6日、チムの子孫のうち一頭残っていたキング、他1頭を連れ栃木県に疎開。東京大空襲で生家のあった江東区亀戸は壊滅。5月25日の空襲で白日荘内にも3発の焼夷弾が落下したが、建物は無事であった。6月、山形県へ再疎開。敗戦後、9月に栃木へ戻り、12月に東京へ。疎開後から白日荘を日系アメリカ人に不法占拠されており、栃木と自由ヶ丘の二重生活が1949年ごろまで続く。『動物文学』の初期の頃の号や収集した資料、書籍が焼かれたり、売られたりした。12月、『動物文学』を不定期ながら復刊する。
1946(昭和21)年 銀行預金の封鎖と、生活の基盤であった江東方面の家屋焼失のため経済的に困難な時代を過ごす。夏、キング死亡。喪失状態が続く。由伎子がシェパードを飼うことを提案、チッケを探してくる。
1948(昭和23)年 動物演技研究所の塩屋賢一が盲導犬(シェパード)の育成を始め、相談役に就任。
1949(昭和24)年 斎藤弘、直良信夫、阿部余四男、岸田久吉らと「哺乳動物談話会」結成。同年「日本哺乳動物学会」に改称。会長は黒田長礼。
1952(昭和27)年 どん底であった経済事情、戦後の食料事情等は徐々に好転。生活は実際の動物の飼育より、資料の蒐集整理と執筆活動が多くなる。『動物文学』以外の書籍、雑誌への研究発表、新聞への執筆、ラジオへの出演等が増える。狼、犬、猫の鑑定を相次いで依頼される。
1954(昭和29)年 日本自然保護協会評議員となる。
1956(昭和31)年 『犬の生態』(犬の生態をわかりやすく、大切なことだけ絞ってまとめた書)、編著『動物とともに』(1954年1月〜6月、アサヒグラフに複数の執筆者が連載した動物エッセイをまとめた書)出版。
1960(昭和35)年 厖大な資料を整理し「犬」と「狼」の本の出版準備に入る。
1962(昭和37)年 1月、チッケ死亡。チッケの死を契機として若い時から続けてきた作歌活動はほとんど静止に近い状態となる。4月、長男布士夫の長女が生まれ、初めて祖父となる。この頃、数多くの猫展の特別審査をする。
1965(昭和40)年 猫に関する研究が増え始める。
1967(昭和42)年 しばらく休止していた連珠への関心が復活し、連珠雑誌『連珠道』に「思い出の戦譜」等を発表しはじめる。
1969(昭和44)年 歌集『老犬』出版(大部分を1982年『犬の歌』に再録)。
1971(昭和46)年 日本猫の標準・試案を作り広く保存を呼びかける。
1972(昭和47)年 『犬を飼う知恵』(初めて犬を飼う人向けに書いた書)出版。連珠は『連珠道』誌に改訂『銀月必勝法』を連載。
1976(昭和51)年 8月『犬の行動と心理』(犬の観察から得た行動と心理についての知見をまとめた書)出版。
1978(昭和53)年 5月『動物文学』を季刊から年3回の会報とし、著作に専念。
1981(昭和56)年 『狼―その生態と歴史―』(狼の生態と歴史をまとめた書)出版。
1982(昭和57)年 歌集『犬の歌』(昭和15年〜53年に作歌した短歌集)出版。
1985(昭和60)年 『猫の歴史と奇話』(猫の歴史や伝説、古今の変わった話等をまとめた書)出版。11月25日、自身の手による最後の『動物文学』51巻3号を発送。12月15日より体調を崩す。8歳のときから80年間1日も欠かさず書き続けられた日記はこの日までとなる。
1986(昭和61)年 正月、一時回復したが2月末、貧血と腎不全のため入院。5月末退院。6月19日血清肝炎のため再入院。6月26日、急変直前まで機嫌よく談笑。26日夜半よりしずかな眠りに入る。27日朝、5時16分死去。
参考文献
平岩米吉,1929,『白日荘紀要』,[未刊行].
平岩由伎子編,1998,『狼と生きて――父・平岩米吉の思い出』築地書館.
金田正吉編,1938,『淡交會々員名簿』東京府立第三中學校淡交會.
片野ゆか,2006,『愛犬王 平岩米吉伝』小学館.
小田晋ほか,2001,『『変態心理』と中村古峡――大正文化への新視覚』不二出版.